STORY 01
手作りの工場
1947年、のちに2代目社長となる松島良平を責任者として、
高松市瀬戸内町に協和化学工業所を設立しました。
終戦直後、まだ高松市街に空襲の焼け跡が多く残っていた極端な物資不足の時代にわずか数名の従業員で、塩田跡地にガレキを埋めて工場をつくりました。
ここから"協和"の歴史が始まります。
当時の協和化学工業所
STORY 02
社名「協和化学工業」の由来
『会社はそこで働く従業員たちのもの』という理念から、
「全従業員が協力する会社」という意味を込めて、"協和化学工業"と命名しました。
STORY 03
『会社を絶対に
潰したらいかん!』
初代社長である松島善男は、
第一次世界大戦後の大恐慌時に大阪港を訪れた際、
職を失い、困窮する街に溢れる多くの人々を目の当たりにし、『こういう不幸な人たちを生み出したらいかん。
従業員やその家族をこういう悲惨な状況に陥れるわけにはいかん!会社は絶対に潰したらいかん!』と固く決意しました。
STORY 04
第一回 春季慰安会
1951年、爛漫に咲く桜の花の下で記念すべき春季慰安会が開かれました。
宴半ばで飲んでいたお酒も残り少なくなった頃、日頃口数の少ない従業員がポツリと言いました。
「親方ぁ、来年の運動会には今日の倍くらいの人数で来るようになっておかにゃいけませんナ。」
当時、協和化学工業所は総勢七名でした。
仰ぐ桜は一樹、その下に敷く莚は二枚で事足りた時代の話です。
STORY 05
協和化学工業株式会社を設立
1950年、協和化学工業所で水酸化マグネシウムと酸化マグネシウムの製造を始め、
その製造がなんとか軌道に乗ったことから
「これなら、仕事としてやれる」と思い、1952年9月17日に"協和化学工業株式会社"として
本格的にスタートしました。
STORY 06
酒樽が原料タンク
1951年、しかしながら、創業当初はまだ物資が不足しており、満足のいく製造設備が調達できる状況ではなかった為、造り酒屋から不要になった酒樽を譲り受け、にがりのタンクとして使用していました。
当時のにがりタンクと2代目社長
STORY 07
創業当時の研究
また研究器具でさえも、小さなおもちゃのような顕微鏡が一つ、手製の電気乾燥機が一つ、pH測定はリトマス試験紙と従業員の舌で行うような状況でした。
STORY 08
“独自の技術による
独自の製品開発”
当時の協和では、大企業のような複雑かつ大規模な設備を使用して製造することは、
資金的に難しかったことから、身の丈に合った製法を研究する以外に手はありませんでした。
何度も試行錯誤を繰り返し、独自の技術で世界一の製品開発を目指しました。
その結果、世界に先駆け、ハイドロタルサイトの工業的合成に成功しました。
その後も次々と新製品を開発、世界に提供しています。
“独自の技術による、独自の製品開発”は
私たちの信条です。